都心から15~20km圏内に位置し、首都圏のベッドタウンとして人気の高い市川市。
実は貝塚跡、古墳跡、住居跡、寺社跡、古戦場跡など歴史を感じられるスポットが多い街でもあるのです。
そんな中から今回は『市川関所跡』についてご紹介します。
~江戸防衛のため役割を果たした『市川関所』~
市川は交通の要衝としての歴史を刻んでいる。天正18年(1590)関東に入った徳川家康は、江戸城の改築を進めるとともに、江戸防衛のため近郊の要所に関所や番所を置いた。そのうち、江戸川は房総に対する要衝であったため、水戸街道の通る金町と松戸間、佐倉街道の通る小岩と市川間、行徳街道の今井の渡しは特に厳重な取締りをうけた。元和2年(1616)には定船場に関する定書きが出されたが、市川の渡しが定船場として認められるようになったのは、この頃からだといわれており、後に番所が置かれ関所に昇格するなど、陸運と水運を結ぶ役割も果たしてきた。
時を経て、江戸時代の中頃には、川のほか山や海を合わせ、全国各地にたくさんの関所が設けられていた。これらの関所には取り締まりが厳しい関所と比較的ゆるやかな関所があり、市川の関所では江戸へ入る武器と江戸から出てゆく女性が、特に厳しく取り締まられた。
「市川関所」と呼ばれることもあったが、多くは「小岩・市川関所」と記され、対岸の2村が1対で1つの関所として定められていた。そして、分担して関所にまつわる役割を果たしていた。幕府の役人が旅人を調べた建物は小岩側にあったので、市川村は緊急事態の時に駆けつけて助ける役割を担い、名主の能勢家が取調べをする役人を補佐した。
市川の関所は明治2年(1869)で廃止になるが、その跡は江戸川に堤防が構築された為、現在では昔の面影をたどる事はできない。(市川関所跡案内板より引用)
左図『江戸名所図会7巻』
小岩方面から市川方面を望む「市川の渡し」の風景。
真ん中に大きく「利根川」(現 江戸川)の流れが描かれており、手前の小岩側に関所、右の対岸に「市川宿」がある。
~市川の水運を支えた『江戸川』~
明治初年頃、江戸川には橋が掛けられておらず渡し船で渡河していたが、江戸川水系及び利根川水系を利用した舟運であった。
市川江戸川橋 『水月堂 生田誠氏』
江戸川橋は、明治38年(1905)に東京-千葉間の軍隊の通行が頻繁なことや、一般の通行も多くなったことから設置され、木造で長さ100間(1間約1.8m)、幅21尺(1尺約33㎝)であった。なお、この時期は現在より川幅は狭かった。
市川橋 平成29年11月撮影
市川橋は、昭和2年(1927)に木造(江戸川橋)から鉄橋に架け替えられている。この理由は橋の老朽化と交通量の増加であり橋げたがゆるむ等危険な状態になっていた。現在の橋は昭和41年(1966)に架け替えられたものである。