市川市が実は『里見八犬伝』のゆかりの地だということをご存知ですか?
今回は、戦国時代に里見氏が北条氏と戦った「国府台合戦」の舞台となった、国府台の「里見公園」についてご紹介します!

下総国支配の決定戦!北条氏 VS 里見氏の激戦地、国府台城

室町時代天文7(1538)年10月、足利義明は里見 義堯等を率いて国府台に陣をとり北条氏綱軍と戦いました。しかし北条軍が勝利をおさめ義明は戦死し、房総軍は敗退しました。
続いて永禄 7(1564)年正月、里見義堯の子義弘は再度国 府台城で北条軍と対戦しましたが、この合戦も北条軍の大勝で終わり、以降この土地は北条氏の支配するところとなり ました。
江戸時代に徳川家康が関東を治めると国府台城は江戸俯瞰の地であることから廃城となりました。 明治から終戦まで国府台は兵舎の立ち並ぶ軍隊の街として栄えました。


『羅漢の井』

里見公園の南斜面下にあり、里見氏一族が国府台城に布陣した際の飲用水として使用したと伝えられ、高台にあって水源が乏しいにも関わらず、一年中清水が湧いています。
一説には弘法大師が巡錫の折に発見し、里人達に飲用水として勧めたとも伝えられています。国府台は高台であるため飲用水を得るためには、深い井戸を掘らねばならず多額の費用がかかりました。この伝説もここの住民にとって、いかに水が貴重なものであったかを物語っています。
長谷川雪旦が描いた江戸名所図会には「総寧寺羅漢井」という絵があり、井戸の周りに人々が集まっている当時の様子が描かれています。

      

 


『里見群亡の碑』


永禄 7(1564)年 1 月 4 日、里見義弘は 8 千の軍勢を率い て国府台に陣を構え、北条氏康軍約 2万を迎え撃ちました。
8 日払暁、北条軍は寝込みを襲い一斉に攻撃したので里見軍は狼狽し、士気を失い敗退しました。
この合戦で敗北した里見広次らをはじめとして討死する者 5 千名と伝えられます。その後、里見軍戦死者の亡霊を弔うものもなく、文正 12(1829)年になってやっと里見諸士群亡塚、里見諸将群霊墓、里見広次公廟が建てられました。


 

『夜泣き石』


里見群亡の碑に隣接してあります。永禄 7(1564)年に里見・北条の合戦で戦死した里見広次には12~13歳になる美しい姫がいましたが、父の霊を弔うため、はるばる遠い安房の国から国府台を訪ねてきました。姫は身も心も疲れ果て、そばにあった石にもたれ弱いかすかな声で父の名を呼びながら幾日か泣き続け、とうとう息が絶えてしまいました。以来、この石から夜になると悲しい声が聞こえてきたという、伝説を秘めた石です。

◇参考文献・『江戸名所図会7巻』・市川市HP・里見公園パンフレット ◇写真 平成30年10月31日撮影